吉原の有名な花魁は誰?花魁道中について調べてみた

吉原の有名な花魁は誰?花魁道中について調べてみた

吉原といえば、日本の歴史や文化に深く根付いた遊郭の象徴的な存在です。その中でもひときわ華やかで人々の注目を集めたのが「花魁」と呼ばれる高級遊女たちでした。彼女たちは美しさだけでなく、教養や話術、和歌に筆など、あらゆる芸事に秀でており、多くの人々を魅了しました。

特に「花魁道中」と呼ばれる儀式的な行列は、その豪華さと格式の高さから現代に至るまで語り継がれています。しかし、花魁道中に秘められた意味についてはあまり知られていません。

この記事では、吉原の有名な花魁とは誰だったのか、そして、花魁道中にはどのような背景があったのか詳しく解説していきます。

吉原の有名な花魁は誰?

高尾太夫

吉原の有名な花魁は誰?

高尾太夫は、吉原の高級妓楼「三浦屋」に所属した花魁です。

吉原で最も有名な名跡のひとつであるため、名は代々受け継がれ、11代目まで存在したとされています。(諸説あり)

中でも、2代目の高尾太夫である、仙台高尾は仙台三代藩主の伊達綱宗との壮絶な愛憎劇で知られています。伊達綱宗に3000両(現在の額で数億円)もの大金で身請けされたものの、恋人がいた仙台高尾は体を一向に許しませんでした。

「拒むごとに一日一本指を切り落とす」と脅されても拒み続けていたそうです。

隅田川で船遊び中に、「恋人がいるから一緒になれない」と仙台高尾が打ち明けると、伊達綱宗は激怒し、船上で逆さ吊りにして斬殺したとされています。

若紫

若紫は、その美貌と知性で多くの人々を魅了しました。幼少期に吉原に連れてこられ、17歳で遊女としての道を歩み始めた若紫は、豪華な和装がよく似合う和服美人として評判でした。

高い教養と気品を備えていた若柴には、数多くの富豪から見受けの申し出があったものの、若柴が選んだのは長年交際していた恋人でした。若柴が恋人と一緒になることを、他の客や妓楼も盛大に喜んでいたそうです。

しかし、年季明けを5日に控えた22歳の時に悲劇が襲います。とある遊女と無理心中しようとした男が、その遊女が他の客を取っている場面を目撃してしまい、怒り狂います。男はふと目に入った若紫に近づいていき、首元を刀で突き刺して命を奪いました。

若柴の墓は浄閑寺にあり、遊女としては珍しく正式に埋葬されています。このことからも、若紫の特別な存在感が窺えます。

花の井(五代目瀬川)

花の井(五代目瀬川)は、吉原の老舗妓楼「松葉屋」の看板遊女で、その美貌と芸事の腕前で名を馳せました。幼少期に親に捨てられ、松葉屋に引き取られた花の井は、持ち前の才能で「瀬川」の名跡を継ぎ、吉原を代表する花魁となりました。

1775年に、盲目の高利貸しである鳥山検校に身染められ、1,400両で身請けされましたが、鳥山検校は1778年に幕府から処罰を受け、全財産を没収され江戸から追放されました。その後、瀬川は家出し、武士や大工の妻になったという説がありますが詳細は不明です。

花魁道中とは

花魁道中

花魁道中とは、江戸時代の吉原遊郭における最も華やかな儀式の一つです。

遊女の最高位である花魁が、禿や新造といった若い女性たちを従え大行列を作り、豪華な衣装を身にまとって、お客さんの待つ揚屋や引手茶屋へと向かう様子を指します。これは単に移動しているだけではなく、花魁の美しさや格式の高さを誇示する一種のパフォーマンスで、花魁の存在を知らせる宣伝効果も兼ねていたと考えられます。実際に町民たちは、この花魁の姿を一目見ようと吉原に訪れていたそうです。

このように、花魁道中は当時の人々にとって一種の娯楽であり、吉原の華やかな文化を象徴するイベントでした。

花魁道中は何の為に行われた?

花魁道中は、単に花魁が客の元へ移動する手段として行われていたのではなく、いくつかの目的がありました。

– 花魁の位を示すため

花魁は吉原遊郭における最高位の遊女であり、その存在は格別なものでした。花魁は豪華な衣装を身につけ、大勢の禿や新造を連れて練り歩くことで、その位の高さと格式を周囲に誇示していました。(花魁道中が行えるのは、花魁の中でもさらに最高位の遊女のみでした)

– 遊郭の宣伝

花魁道中は遊郭全体の宣伝にも繋がっていました。豪華な行列は人々の注目を集め、遊郭の存在を広く知らしめる役割を果たしていました。

– 一種のエンタメ

花魁道中は見物人にとって、一種のエンターテイメントでもありました。普段は見ることのできない豪華な衣装や美しい花魁、独特な歩き方などは、人々を楽しませました。

花魁道中で高い下駄を履く意味は?

花魁道中の際に花魁は、約20cmにもなる三本歯高下駄を履いていました。なぜ、花魁はこのような下駄を履いていたのでしょう?

– 衣装

花魁が高下駄を履いていた理由の一つに、豪華な衣装の裾が地面に触れないようにするという目的がありました。重い着物を身につけていたため、高下駄を履いて裾を上げ、汚れや傷みを防いでいました。

– 歩き方

花魁は高下駄を履いて、独特の歩き方である「外八文字」で歩く必要がありました。この歩き方は、足を外側に八の字を描くようにゆっくりと動かすことで、優雅に見え、花魁の美しさが際立つ効果がありました。

– 位の誇示

高い下駄を履いて高さを強調させることで、花魁が高貴で特別な存在であることを視覚的にも示していました。

花魁道中の歩き方について

花魁道中の際、花魁は「外八文字」と呼ばれる独特の歩き方をしていました。これは、高い下駄を履き、足を外側に振り出しながら八の字を描くようにして、ゆっくりと歩く方法です。

– 優雅に見える

高い下駄を履いているため、歩幅は小さく、ゆっくりとした歩調になります。このゆっくりとした歩き方が、花魁の優雅さを際立たせていました。

– 見物人に見せるため

花魁がゆっくりと歩くことで、見物人は花魁の豪華な衣装や美しい姿をじっくりと見ることができました。これは、花魁道中が遊郭の宣伝にもなっていたため、重要な要素でした。

花魁道中が今でも見れる場所がある?

花魁道中が今でも見れる場所がある?

花魁道中は、現代でも以下の場所やイベントで見ることができます。

浅草観音うら 一葉桜まつり

毎年4月上旬に、東京 浅草の観音裏エリアで開催される「一葉桜まつり」では、江戸時代の吉原遊郭を再現した「江戸吉原おいらん道中」が披露されます。一葉桜が咲き誇る小松橋通りを舞台に、豪華絢爛な衣装をまとった花魁たちが独特の「外八文字」の歩き方で練り歩く姿は、多くの観客を魅了します。

(※2024年の一葉桜まつりでは、実施されていません。)

江戸ワンダーランド日光江戸村

栃木県日光市に位置するテーマパーク「江戸ワンダーランド日光江戸村」では、江戸時代の町並みや文化を体験できます。その中でも、花魁道中は特に人気のイベントで、豪華な衣装をまとった花魁が園内を練り歩く姿を間近で見ることができます。

宗春花魁道中

名古屋市の金シャチ横丁で開催される「宗春花魁道中」は、尾張藩の第7代藩主・徳川宗春にちなんだイベントです。毎年春に行われ、豪華な花魁衣装をまとった参加者たちが、名古屋の街を練り歩きます。

まとめ

今回は、吉原の有名な花魁とは誰だったのか、そして、花魁道中にはどのような背景があったのか解説してきました。

吉原の花魁といえば、「高尾太夫」「若紫」「花の井(五代目瀬川)」などが有名です。高尾太夫は11代名を受け継ぎましたが、中でも2代目の仙台高尾は、伊達綱宗との悲惨な結末で知られています。若紫は、美貌と知性で人気を集めましたが、悲劇的な最期を迎えました。花の井は、幼少期に引き取られた松葉屋で才能を開花させ身請けされましたが、その後の消息は不明です。

花魁道中とは、豪華な衣装を見にまとった花魁が、禿や新造を従えて客の待つ場所へ向かう様子を指します。これは単なる移動ではなく、花魁の格式の高さを誇示するとともに、遊郭の宣伝にもなっていました。

花魁道中の際、花魁は約20cmもの高下駄を履き「外八文字」という独特の歩き方で歩きます。この高下駄と歩き方は、花魁の存在を誇示し、優雅さを際立たせていました。

現代でも花魁道中を見られる機会はいくつかありますので、気になる方はぜひ足を運んでみてください。