日本の三大遊郭はどこ?遊女と花魁の違いって何?

日本の3大遊郭

日本の三大遊郭と聞くと、江戸時代から明治・大正時代にかけて、華やかさと切なさが入り混じり、様々な文化が生まれた場所が思い浮かびます。しかし、具体的にどの遊郭がその三大に含まれるのかご存知ですか?

また、「花魁(おいらん)」という言葉は有名ですが、「遊女」とは何が違うのか明確に理解している人は少ないかもしれません。

この記事では、日本の三大遊郭はどこなのか?遊女と花魁は何が違うのか詳しく解説していきます。

日本の三大遊郭はどこ?

日本には多くの遊郭が存在しましたが、その中でも特に規模が大きく、文化的に重要な役割を果たしたのが「三大遊郭」と呼ばれる3つの遊郭です。

日本の三大遊郭である「江戸の吉原」「京都の島原」「大阪の新町」について、詳しくみていきましょう。

江戸の「吉原」

吉原
著者:歌川広重(2世) タイトル:『東都新吉原一覧』(編集) 出典:東京都立中央図書館デジタルアーカイブ

江戸の吉原は、日本を代表する遊郭として知られています。

1617年に徳川幕府から認可を受け、日本橋近くに「元吉原」として設立しましたが、1657年の明暦の大火によって、現在の東京都台東区千束に「新吉原」として移転しました。

新吉原の遊郭は2万坪以上にもなる大きさで、周囲を塀で囲まれた閉鎖的な構造でした。この遊郭で暮らしている遊女たちは、芸に長けた教養人としてサービスを提供していました。そんな遊女は、年季が明けるか、借金を返済するまでは吉原を出ることが許されず、閉じ込められている状態でした。

そのため、逃げ出したい遊女による放火が絶えず、19回も全焼しています。

吉原の遊郭は、江戸の経済に大きな影響を与え、1日に千両(約1億円)以上のお金が動いたと言われています。また、吉原は歓楽街にとどまらず、江戸文化の発信地でもあり、文学や浮世絵に頻繁に登場しています。

そんな吉原は、1958年の売春防止法施行により、遊郭としての歴史に幕を閉ざしました。

京都の「島原」

島原大門
島原大門 出典:Googleマップ

京都の島原は、1589年に豊臣秀吉が町の治安を保つ目的で設立した遊郭です。

島原の遊女たちは、茶道や能楽など高い教養を持っており、性的サービスがメインとなっていた吉原とは違い、茶会や和歌、歌舞の披露などが行われていました。島原は時間が経過するとともに、老若男女に関わらず気軽に誰でも入れるようになり、食事や娯楽が楽しめる場所になりました。

また、吉原では遊女が外へ出ることが許されていませんでしたが、島原の遊女は比較的出入りが自由だったようです。そのため、遊女による放火は一度も起こっていません。

このようなことから、島原は単なる遊興の場を超えた文化交流の場でもありました。島原で最もランクの高い遊女は「太夫」と呼ばれ、皇室や公家など身分の高い客しか接することができませんでした。

現在島原は、「角屋」や「輪違屋」という歴史的建造物が一部残り、当時の文化を現代に伝えています。

大阪の「新町」

大阪新町
大阪新町 著者:暁 鐘成 タイトル:『浪華名所独案内』 出典:大阪市立図書館デジタルアーカイブ

大阪市西区に位置する新町は、江戸時代に高級花街として栄え、350年間続いた遊郭です。

新町は、大阪城再建時に廓の存続を願い出た木村又次郎という男が、遊女を一つの町に集めるために作られました。

当時、新町には多くの料亭や茶屋が立ち並び、高級な接待文化が発展しました。その影響で大阪の文化や経済において重要な拠点となり、商人たちが得意先を接待する社交場としても利用されていました。

江戸の吉原と同様に、新町も出入り口は一つしかありませんでした。唯一の入り口であった「新町橋」は、新町の中にある瓢箪町(ひょうたんまち)に架けられていたので「ひょうたん橋」とも呼ばれていました。

出入り口が一つの理由も吉原と同じで、遊女が逃げられないようにするためです。

現在、新町橋が架かっていた場所には石碑が建てられています。

遊女と花魁の違いって何?

遊郭で働いていた遊女と花魁。どちらも華やかな世界で生きていた女性たちですが、その間には明確な違いがあります。

遊女

遊女
遊女 著者:喜多川歌麿 タイトル:『青楼絵抄年中行事 上之巻』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション編集して作成

遊女とは、遊郭で働く女性を指します。娼婦や傾城とも呼ばれ、その起源は巫女として神に仕えつつ歌や踊りを行う女性たちが、次第に旅人や宿場で性的サービスを提供するようになったことにさかのぼります。

遊女は必ずしも高級な存在ではなく、階級によって提供するサービスや装いが大きく異なりました。一般的な遊女は簡素な着物をまとい、実用性を重視していたのが特徴です。

花魁

花魁
花魁 著者:歌川豊国 タイトル:『三浦屋若柴』 出典:国立国会図書館デジタルコレクション 編集して作成

花魁は、吉原遊郭において最高位の遊女を指す言葉です。

花魁になるためには、厳しい修行と競争を勝ち抜く必要があり、遊女の中でも、ごく一部の女性だけがその地位に上り詰めることができました。教養や芸事、接客技術に優れ、見た目も美しく華やかで豪華な衣装を身にまとっていた花魁は、客を選ぶ権利を持ち、客も特定の階級や富裕層であることが求められました。

また、花魁が他の遊女たちを従えて大行列を作り吉原を歩く「花魁道中」では、その格式の高さを周囲に表していました。

まとめ

今回は、日本の三大遊郭はどこなのか?遊女と花魁は何が違うのか詳しく解説してきました。

日本の三大遊郭とは「江戸の吉原」「京都の島原」「大阪の新町」です。これらの遊郭は、単なる遊興の場ではなく、当時の社会や文化を映し出す重要な役割を担っていました。

吉原は、日本を代表する遊郭として知られ、多くの文学作品や浮世絵に登場しています。島原は、茶道や和歌などより雅な文化が花開いた遊郭で、遊興の場を超えた文化交流の場でもありました。新町は、料亭や茶屋が立ち並び、高級花街として350年間も存続していました。

遊郭で働く女性たちは「遊女」と呼ばれていましたが、その中でも最高位の遊女が「花魁」です。花魁は美貌はもちろん、高い教養や芸事の才能を持ち合わせており、そう簡単になれるものではありませんでした。